2012年12月10日

2012年10月17日

2012年10月11日

2012年10月10日

一万円札


もうひとつお金にまつわる話。

電車に揺られて窓の外を見ていると、聖徳太子の大きな肖像が目に飛び込んできた。ビルの上に設置された看板だったのだが、その顔のとなりに「質屋」と書いてあった。ん?でなんで聖徳太子?と考えてしまったが、そういえば一万円札に使われてたときがあったのだね。その時代を直接は知らないので、お金のイメージと結びつけるまでにやや時間がかかってしまった。

一般の人に言葉で説明をするのではなく、画で説明をする場合、それが伝えたいこととすぐに結びつくような多くの人に共有されているイメージであることが前提だ。でももう聖徳太子=お金のイメージがまったく分からない人もけっこういると思う。

その看板、だいぶ年季が入っていてうすーくなっていたので、聖徳太子が一万円札だった頃からそのままあるのだろう。世間のイメージから取り残されてそのまま。そう考えると、目の前を通り過ぎていく電車を見つめる聖徳太子の目が、ちょっと物悲しく思えてくるかも。



2012年10月9日

500円玉

旧500玉が手元にまわってきた。
たぶんコンビニで買い物をしたときにおつりでもらったのだと思う。
最初財布の中を見たとき、なんだか見慣れない大きな硬貨があって、あれっと思ったのだが、取り出してみると旧500円硬貨だった。お目にかかるのは久しぶりすぎて、一瞬なんだか分からなかった。

今のきんぴかの500円玉に変わったのはいつだろう。と思って調べてみると、デザインが変わったのは2000年のことらしい。もう10年以上前なのか。500円玉が新しくなった当時、色があまりにも変わったのでびっくりしたし、なんかゼロの部分に文字が浮かび上がっているのもすごいなあと思った。自動販売機には「新500円玉つかえます」とか「つかえません」とか張り紙がされたのも覚えている。あれもいつの間にか消えていた。というか旧500円玉いま自販機で使えるのかなあ。
しかし、変わったときのことをこう覚えていても、子どもの頃は今ほど500円玉を持つ機会がなかったわけだし、自分にとっては当然きんぴかの新500円玉のほうがなじみがあるのだ。

これまでの人生で明らかに新500円玉に触れている期間のほうが長いのに、「新」というのもなんだかと思うが、古い500円玉を知っている身としては、やはりこのきんぴかの500円玉は(旧と比較して)「新」500円玉だ。
しかし「新」500円玉の「新」という言葉が含む「できたて」とか「新鮮」といった意味合いは、もうどっかへいってしまったようだ。今となっては旧500円玉を見たときに「なんだこれ」と違和感を感じるのだから。

2000年のあの頃の、きんぴかの500円玉に対する馴れない違和感と、それまでの500円玉への馴れ親しんでる感は、この12年の間にいつのまにかすり替わっていたのだ。


とにかく、この500円玉、使うのはもったいない気がしてしまうので、小箱に入れてとっておこうかと思う。


2012年9月9日

トチの実

近所にトチの木があって、地面に実が落ちはじめていた。

トチの実は手触りがいい。黒っぽい皮は非常になめらかで、すべすべしていて、そうでない茶色の部分はなんかマットな感じ。
それと、手のひらにちょうど収まるサイズ感、コロンとした形、ある程度の重量感なんかも相まって、なんかこう、「宝物」っぽい。
ひとつ拾ってきたので、しばらくは手元において眺めていよう。


そういえば国語の教科書にでてきた「モチモチの木」はトチの木だったな。実を餅にするんだっけ 霜月20日の晩に輝くとかなんとか

「モチの木」という木もあるが、それは真っ赤な実をたくさんつける別物だと知って、なんだかややこしいなあと思った記憶がある。


夜には虫も涼しげに鳴いているし、すっかり秋ですかね。

2012年9月7日

2012年9月6日


思い出は芋づる式

夏の間、祖父母の家の片付けを手伝った。荷物の中から古い絵本や祖父にあげた手紙なんかが出てきて、ああこんなこともあったっけと芋づる式に記憶がよみがえった。

こういった思い出は、なかなか意識して引き出せるものではない。
脳のひきだしのどこに何があるかすっかり把握していて、ぽこぽこっと取り出せるような頭の回転にはあこがれるが、こうしてふとしたきっかけで、すっかり忘れていたことを思い出すのも楽しい。ひとつ思い出すたびに、なんか得した気分になる。


はじめに

とりあえず作ってみました。
らくがきや雑記をたれながしていこうかと思います。

そのうちちゃんとホームページつくろう。